桂離宮

Add: uroxyre73 - Date: 2020-12-15 20:11:40 - Views: 9506 - Clicks: 210

宮内庁参観案内:施設情報:桂離宮 17世紀の初めから中頃までに、八条宮初代智仁親王と二代智忠親王によって造られたもので、日本庭園として最高の名園といわれています。. . 桂離宮の敷地は広大です。 総面積は附属の農地などを含めるとおよそ 6万9千平方メートル。 東京ドームの1. 桂離宮からの目安距離約 4. nhkスペシャル 桂離宮 知られざる月の館 dvd 5つ星のうち5.

桂離宮(かつらりきゅう)は、修学院離宮とならんで、江戸時代初期の代表的な山荘で、八条宮家初代の智仁(としひと)親王(1579年 - 1629年)によって基礎が築かれました。. いつからこの地が八条宮家のものになったかなど未だ謎が多い桂離宮ですが、昭和51~57年にかけて行われた修理工事では、造営の歴史背景が克明になっています。 最初に建てられたのは古書院です。 高貴な女性の建物に使われていたものを利用した違い棚を持つ中書院が次に建てられました。 更に楽器の間が増築され、新御殿は別の建物を壊した古材を使っていることもこの時に発見されています。 桂離宮の中心的建物の、古書院、中書院、楽器の間、新御殿は、少しずつ後退しながら連続しています。 ずらしながら接続した形態を雁が飛ぶ隊形に似ているということで雁行型と呼んでいるそうです。 この4つの建物を総称して書院群と呼んでいます。 この工法を使って建物が建てられたのには理由があります。 建物と建物をただ連ねただけだと自慢の庭が見える部屋が少なくなるからだとか。 せっかく別荘に来たなら美しい庭園に癒やされたいですよね。. 承応3年(1654年)に、後水尾上皇皇子幸宮が、智忠親王の養嗣子となっていました。 その関係もあり、寛文3年(1663年)に後水尾(ごみずのお)上皇の桂御幸に際し、楽器の間や新御殿、雁行を増築し、庭園も整備され改修しています。 古書院、中書院、楽器の間、新御殿と雁行する書院群は、この時に造られたもので、裏側にある旧市役所は中書院造営時に造られたままだそうです。 現在の桂離宮の建造物は、池の周囲に書院群があり、その周囲に茶屋が点在しています。 古書院や中書院、新御殿は、入母屋造りで柿葺き(こけらぶき)の屋根で、書院造りを基礎としています。 しかし、数奇造りの箇所も見られ、建物自体も堂々とした雅な美しさを誇っています。. 桂離宮のディテールは、よく、モダンだと言われますが、たしかにそんな印象。 見事なコンポジション。どうしても一般客の立ち入り禁止のための竹が目にうるさいですが。 松琴亭の有名な加賀奉書の貼り付け、水色と白の石畳状の混ぜ張り。. 桂離宮に訪れるなら、秋の紅葉時期は一段と華やかです。 訪れる人のほとんどが、手入れが行き届いた庭園を見て「ここは格別」と称賛しています。 砂利道や飛び石を苔などの植物に配慮しながらの散策も楽しいものです。 自然と建物が美しく融合した宮廷の名園に陶酔してみてはいかがでしょう。 photo by PIXTA.

中書院は南北棟の入母屋造、杮葺の建物で、規模は4間半四方である。間取りは、田の字形で南西に主室の「一の間」があり、その東(建物の南東側)に「二の間」、その北(建物の北東側)に「三の間」と続く。建物の北西側には「納戸」がある。建物の東面から南面にかけて、半間幅、畳敷の「折曲り入側縁」をめぐらす。古書院が松の角柱を使用するのに対し、中書院の柱は杉の面皮柱である。一の間は6畳で、西側に幅2間の大床があり、矩折れに北側には違棚がある。違棚には桂離宮には珍しく、鍍金菊花文の飾金具が用いられている。昭和修理時の調査により、この違棚は他の建物からの転用であることが判明している。二の間は8畳で、一の間・二の間境の欄間は木瓜形の窓を開ける。三の間は8畳で西側に1間幅の床(とこ)があり、床の右側は2畳大の「小間」となる。ただし、三の間と小間の間には間仕切りはなく、一体の空間になっている。各室の襖や床(とこ)、違棚の貼付壁には狩野派絵師による水墨画が描かれている。筆者は一の間の「山水図」が狩野探幽、二の間の「竹林七賢図」が狩野尚信、三の間の「雪中禽鳥図」が狩野安信である。 古書院と中書院とでは、縁や縁の下の構造にも差異がある。古書院の縁は板敷で吹き放しの濡縁であり、雨戸は奥まった位置に立っている。これに対し、中書院の縁は屋内の畳縁で、雨戸と明障子は建物の外縁部に立つ。古書院では雨戸の茶色と明障子の白が交互に目に映るのに対し、中書院では雨戸は日中は戸袋に納められているため、明障子の白色の面積が大きくなっている。この点は新御殿も同様である。古書院、中書院、新御殿とも、桂川の水害に備えた高床式の建物になっているが、このうち古書院では縁板より下を白壁で囲っており、縁の下の空間が一切見えないのに対し、中書院と新御殿では縁の下は吹き抜けとし、床下を覆い隠す白壁(一部は竹壁)は一段奥に引っ込んだ位置にある。 中書院の年代については、障壁画を描いた狩野探幽・尚信・安信の3兄弟が揃って京都にいたのが寛永18年(1641年)であり、その頃の建立と推定されている。建築様式的にもその頃の建立とみて差し支えなく、翌寛永19年に八条宮2代の智忠親王が前田利常の女の富姫を娶っていることも増築と関連するとみられる。なお、昭和の解体修理時の調査により、中書院の縁が当初は吹き放しであったこと、三の間西側の床と2畳の小. See full list on weblio. 最寄駅桂駅 住所京都府京都市西京区桂御園 電話. More 桂離宮 images. dvd ¥3,990 ¥3,990.

(皇居・京都仙洞御所・桂離宮・修学院離宮) オンライン参観受付からの登録の流れを説明いたします。 オンライン参観受付からの申込情報を確認します。. (桂離宮の地図) 最寄駅桂駅 住所京都府京都市西京区桂御園 電話. 桂離宮(京都市)に行くならトリップアドバイザーで口コミ(472件)、写真(677枚)、地図をチェック! 桂離宮は京都市で7位(1,663件中)の観光名所です。.

秋の桂離宮について 【要事前予約】 「桂離宮」(かつらりきゅう)は『日本庭園の最高傑作』の名高い、江戸時代初期に皇族・八条宮家の別邸として造営された離宮。 広大な池泉回遊式庭園の作庭者は江戸初期を代表する作庭家・小堀遠州に師事した玉淵坊と推. 江戸初期 (1615年頃)に造営開始して、1622年に現在の姿となり、建築当時の建物が今も現存する貴重な庭園である。. 明治16年に宮内庁所管となり桂離宮と. 新御殿は南北棟の入母屋造、杮葺の建物で、規模は7間四方、実寸は一辺約14メートルである。内部は9室に分かれる。南東に主室の「一の間」があり、その北に「二の間」、その北(建物の北東側)に「水屋の間」と続く。建物の西側は、北列が「長六畳」と「御納戸」、中列が「御寝の間」と「御衣紋の間」、南列が「御化粧の間」と「御手水の間」である。一の間・二の間の東から南にかけて「折曲り入側縁」をめぐらす。建物南西の突出部に「御厠」「御湯殿」「御上り場」がある。柱は中書院同様、杉の面皮柱である。一の間は9畳大で、うち南西の3畳分を框一段分高くなった「上段」とし、ここに著名な桂棚と付書院がある。桂棚は修学院離宮の「霞棚」、醍醐寺三宝院の「醍醐棚」とともに「天下三名棚」に数えられるもので、黒檀。紫檀、伽羅、唐桐、唐桑など、輸入品を主とした18種の銘木を組み合わせて作られている。天袋に李白と林和靖図、地袋には円窓内の山水図を描き、狩野探幽の筆とされている。付書院は室外に張り出さない形式のもので、唐桑材の文机とその上の櫛形の窓からなる。櫛形窓の枠は黒柿、その上部の羽目板と袖壁はトチ材である。櫛形窓には明障子を立てる。文机の下は地袋ではなく吹き放しとし、奥に板戸を嵌めるが、この板戸は取り外し可能で、ここから風を入れることができる。二の間は9畳大で、南西の1畳分を床(とこ)とする。床脇の壁には木瓜形の窓を開ける。一の間・二の間境の欄間は幾何学的なデザインで「月の字崩し」ともいわれる。御寝の間は新御殿の中央に位置する10畳大の部屋で、周囲の襖を閉め切れば外部の光が入らなくなる。北東の1畳分のみ畳を一段高くし、その上部、内法やや下に「御剣棚」という三角形平面の袋棚を設けている。棚の引戸には「捩り張り」と称する紗を張っている。この棚は御剣、すなわち天皇の守り刀を納める場所とされているが、後水尾院が行幸したときは譲位後だったため、実際には御剣は所持していなかった。御化粧の間、御衣紋の間、御手水の間は天皇の着替えや整髪などに用いるための部屋である。御化粧の間には、前述の桂棚の裏にあたる位置に直線的デザインの棚があり、「裏桂棚」と称されている。入側縁は一の間・二の間寄りを畳敷、庭寄りを杉板敷とし、これらの境には欅材の框を入れる。 新御殿や楽器の間では、簡素な中にも釘隠、襖の引手、板戸の引手などの細部に独創. 6代文仁親王、7代家仁親王、8代公仁親王によって別荘として使われていた桂離宮ですが、その後はほとんど使われることがありませんでした。 公卿や武家に見物としてよく使われており、この時既に名園として有名でした。 現在見られる桂離宮は、7代の家仁親王時代に手直しされ、現在まで大切に維持管理されてきたものです。 また、この庭園内を散策すると、江戸時代初期において公家たちが遊んでいた様子を垣間見ることもできます。 八条宮家は嗣子に恵まれていません。 そのため、宮号も常磐井宮(ときわいのみや)、京極宮(きょうごくのみや)と変わっており、文化年期に桂宮に改称しました。 明治14年(1881年)に淑子(すみこ)内親王を最後に途絶えてしまいました。 なんだか栄枯盛衰を見るようでもの悲しさを感じます。 本邸の今出川屋敷は二条城本丸に移築されました。 桂離宮は桂宮家の別荘として造営されたもので、このまま廃墟になることに危惧した京都府知事が、皇室の資産とするよう内申しました。 これが認められたことにより、明治16年(1883年)には、桂別業が「桂離宮」と改名され宮内庁の管轄下となりました。. Amazonで和辻 哲郎の桂離宮―様式の背後を探る (中公文庫 わ 11-3)。アマゾンならポイント還元本が多数。和辻 哲郎作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。. 寛永18年(1641年)ごろから智忠親王により、父智仁親王が建てた古書院の一部を改築し中書院を増築しました。 彼は、結構イケメンで才能に長けた人物でした。 運が良かったのか、寛永19年(1642年)の24歳の時に、加賀二百万石の藩主前田利常の娘と結婚しました。 彼女の母は、徳川秀忠の娘珠子で、後水尾上皇皇妃和子の姪でもありました。 なので、嫁入り道具も豪華で、経済面だけでなく政治においても後ろ盾を得て、宮廷の中でもかなり裕福な存在となっています。 実は、中書院はこの結婚に際し、御殿の増築が行われたものです。 障壁画を著名な画家の狩野探幽、尚信、安信の3兄弟が担当しています。 庭においてもこの時大改築を行いました。 将軍家と前田家から財政援助があるんだから、別邸作りでも金銭面に困ることはありませんでした。 慶安2年(1649年)に庭園内に5つの茶屋も設置したのです。 この時、鳳林承章らを招いて宴会を催しています。 鳳林承章は『隔蓂記』に舟遊びの様子を書き記しています。 桂離宮はどこまで豪華になっていくんでしょうね。 2回目には5つの茶屋を全て壊し、松琴亭・月波楼・賞花亭・園林堂を設営したようです。 寛文2年(1662年)智忠親王が亡くなります。 享年44歳でした。.

40ポイント(1%) 明日中12/10 桂離宮 まで. 桂離宮(かつらりきゅう) 京都通百科事典(r)の詳細解説のページです。京都観光・京都検定受験の参考にもして頂ければ. 松琴亭は、池の東岸、間に小島を挟んで対岸の古書院と向かい合う位置にある、茅葺の田舎家風の茶屋である。建物は池に突き出た半島状の部分に位置してほぼ北面し、南を除く三方が池に面している。建築面積は56平方メートル。平面は中央に中庭を設けた「ロ」の字形であるが、屋根構成は複雑である。北側の東西棟、入母屋造、茅葺の部分が主体となるが、茅葺屋根の一部は、主体部と棟を直交させる形で西寄りの後方にも伸びている。主体部の後方東寄りには茶室があり、ここには杮葺屋根が掛かる。さらに建物の裏手、すなわち南面には瓦葺きの片流れ屋根が掛かり、この部分には水屋や竈などの裏方の設備がある。北側正面は深い土庇となり、その奥の西側(向かって右)に変形(L字形平面)11畳の「一の間」、東側に6畳の「二の間」がある。一の間の手前に「膳組所」が張り出す。二の間の後方は茶室である。一の間と茶室に挟まれた建物中央には中庭を設け、その北側は西が「次の間」、東が「勝手の間」となる。さらに北には西側に土間を挟んで2つの板敷の間(西板敷、東板敷)があり、これらの東に「水屋の間」がある。土間には炉を設ける。東側妻に後陽成天皇宸筆の「松琴」の扁額を掛ける。昭和修理時にも松琴軒の正確な建立年代を示す資料は発見されなかった。ただし、後の増築との説もあった茶室については、一の間・二の間と同時の建築であることが判明した。 一の間は、鉤形の変形平面の11畳敷で、東側に床(とこ)、その向かって右に戸棚があり、戸棚と矩折れの位置に石炉を設け、石炉の上には袋棚を設ける。戸棚の襖には山水図、石炉上の袋棚の小襖には花鳥図が水墨で描かれ、これらは狩野派の作品である。後者の花鳥図に描かれる鳥は尾長鳥、翡翠(かわせみ)、鶺鴒(せきれい)、雀の4種である。床の壁面と、二の間境の襖とは、白と藍色の方形を互い違いに配置した抽象的な文様(市松文様)で全面が覆われている。これは白と藍染の加賀奉書を張ったもので、桂離宮にみられる斬新なデザインの代表例として知られている。襖や小襖の引手には結び紐形、七宝文、螺貝形などが用いられている。これらの金物は、嘉長の作と伝えられており、特に螺貝形の引手は七宝の技法が用いられている。一の間の手前(北)には板敷の膳組所がある。ここには竈(くど)構えがあり、竹と葭で編んだ低い垣をめぐらし、隅には平面三角形の棚を設ける。二. 桂離宮(かつらりきゅう)は、京都市西京区桂にある皇室関連施設。江戸時代の17世紀に皇族の八条宮の別邸として創設された建築群と庭園からなる。総面積は付属地を含め約6万9千平方メートルで、うち庭園部分は約5万8千平方メートルである。離宮とは皇居とは別に設けた宮殿の意であるが、「桂離宮」と称するのは明治16年(1883年)に宮内省所管となってからで. 笑意軒は、池の南岸、離宮敷地の南端近くにある茶屋で、池に面した北側を正面とする。建物名は李白の『山中問答歌』の句、「問余何意栖碧山 笑而不答心自閑」(余に問ふ何の意ありて碧山に栖むと。笑ひて答えず心自ら閑かなり)に由来する。笑意軒前の池の岸は、直線的な切石で構成した船着場になっている。建築面積は63平方メートル。寄棟造、茅葺の屋根の北・東・西の三方に杮葺の庇をめぐらし、東側には杮葺の突出部がある。北側正面は深い土庇となり、大小の飛石を配置し、榑縁を設ける。寄棟造の主体部の東側は手前が「口の間」、その奥が「中の間」であり、これらの西に「次の間」、建物西端には板敷の「膳組の間」がある。中の間の東側の突出部には3畳で床(とこ)、付書院付きの「一の間」があり、その東に納戸、東端に厠がある。口の間の外に面した壁の内法上は、円形の下地窓を左右に6個並べた独特の意匠となっている。下地窓の上方に掛けられた「笑意軒」の扁額は、曼殊院良恕法親王(智仁親王の兄)の筆である。中の間、次の間は南に面して大きな開口部を設け、南側の農地が見える。この建物は公家住宅に存在した「物見」と同様、邸内から外部の様子を眺めるための建物という性格をもっている。中の間は2間の間口一杯に窓を設けるが、この窓の下の腰壁に独特の意匠を施す。この腰壁は横に細長いが、その中央部分を平行四辺形に区切って、そこに金箔を張り、左右の直角三角形のスペースには市松文様の天鵞絨(ビロード)を張る。なお、この腰壁が現在のようなデザインになったのは、八条宮7代目の家仁親王が修理を加えた時からで、当初は腰壁全面に天鵞絨が張られていた。口の間東側の杉戸外面の引手は矢羽根形、口の間・中の間・次の間の襖の引手は船の櫂の形とする。襖には山水や花鳥が描かれていたが、剥落が著しい。昭和の修理時に、一の間・納戸境の襖の下張りから承応4年(1655年)の年紀が発見され、この年が建立時期の上限となる。. 桂離宮には24基の石燈籠がある。別名「切支丹燈籠」と呼ばれる「織部燈籠」は古書院御輿寄前などにある。他に「水蛍燈籠」(賞花亭付近)、「三角燈籠」(笑意軒延段付近)、「三光燈籠」(笑意軒舟着き北岸)、「雪見燈籠」(笑意軒舟着き北岸)などがある。 1. 桂離宮は修学院離宮を造営した後水尾上皇(ごみずのおじょうこう)の叔父にあたる八条宮 智仁親王 (はちじょうのみや ともひとしんのう)によって造営。. 桂離宮については色々な本などで余すところなく紹介されているので省くが2,3感じた点に触れる。 一、待合で説明を聞きながら構造、し組みなどを見ていたが、確かに丸太と丸太のジョイント部など、その繊細な仕口の細工には敬服した。.

桂離宮の景色は、ほぼ”独り占め”状態である。 それこそ、自分が公家になった気で見学ができる、日本で唯一の場所ではないだろうか。 一般の見学者にとって、限られた時間で、この広大な桂離宮を全て理解して、把握する事は絶対に不可能である。. 庭園は、約7万平方メートルの回遊式庭園になっており、どの書院からも庭を楽しめるよう工夫がされています。 池の造りは海や川を真似て作っているのが特徴で、水辺は独特のカーブをつけたり、直線の美しさを見せたり、庭石も切り出して変化をつけたり、自然のままの石の美しさを楽しんだりできるよう意識して造られています。 建物からだけではなく、庭を散策する人が十分に楽しめる工夫がされているのも魅力なんですよ。 中央にある庭には大小3つの中島がある池があり、池で舟遊びもできるように造りました。 茶屋には船着き場が設けられています。 なんだか、桂離宮に訪れて、平安時代の貴族の気分で舟遊びしてみたいものですね。 また、京都に残っていた天皇家の離宮の多くは神社やお寺などに建て替えられ、かつての優雅な姿からは程遠いものとなっています。 そういう意味でも、桂離宮や修学院離宮などは、皇家ゆかりの別荘の様子を偲べるものとして貴重な存在といえるのではないでしょうか。. 桂川がすぐ隣に流れる西岸に、平安朝の雅な雰囲気に思いを馳せて江戸時代初期に造られたのがこの桂離宮です。 桂離宮を造営したのは宮廷きっての文化人として知られる、八条宮智仁(としひと)と智忠(としただ)でした。 桂離宮の建築が始まって以来400年間一度も火災に遭っていないとか。 現在、京都には17の社寺や城が、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されており、今後追加予定なのが桂離宮と修学院離宮とされています。 そういう面でも桂離宮は、ゆっくり観光し美しさを味わいたいスポットです。 智仁親王は、豊臣秀吉が嫡男に恵まれず猶子に出されましたが、秀吉に実子ができ猶子を解かれました。 この時に秀吉から3000石を受け取り、それを元手に八条宮家を興しました。 桂離宮は、「古書院」「中書院」「新御殿」に分かれており、元和元年(1615年)ごろに造られた「瓜畠のかろき茶屋」といわれる建物が古書院の始まりでした。 寛永元年(1624年)に庭と共に完成しています。 桂川から水を引き細流れや大池を造りました。 次いで、築山を築いています。 人口の自然景観の中に御殿や茶屋を配置しており、自然と建物の調和した美しさにはうっとりさせられます。 智仁親王は、風流を大変好んだ人物で、平安貴族が桂で舟遊びや宴をしていた様子を思い浮かべながら建てたといわれています。 寛永6年(1629年)4月6日に智仁親王は、崩御しています。 後継ぎの智忠親王はたったの9歳だったので、この離宮はあっという間に荒れ放題になりました。. . その宮家も1883年(明治16)には.

桂離宮に行ってきました! システムが変わって有料になった後は1回の見学人数の定員が増えたようで、予約もネットでパパっとできたので難しくなかったです(基本、先着ですし)。. More 桂離宮 videos. そして初代の八条宮智仁親王 (上図参照)は,正親町天皇(1557−1586)の孫だったのである。. 桂離宮は、池泉回遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)と呼ばれるスタイルで大きな池を中心に苑路を巡らして、築山、池の中に小島を配し、橋、名石などで景勝を再現しています。 桂離宮が日本庭園の傑作とされるわけは?. 二重桝形手水鉢と石燈籠(外腰掛近く) 4. 観光スポット・サービス情報。京都にある観光情報をカテゴリ別にご用意しました。行きたいスポットへは、エリアで検索.

桂離宮は実際にはデザインに凝った建築であり、モダニズムからは遠い要素を多分に含んだ建物で、昭和以前は、そのように理解した論もそれなりに多かった ものが、モダニズムが流行し始めると、モダニストたちは桂離宮を、モダニズム建築という点を. See full list on wondertrip. 桂離宮は,王朝時代から月の名所として知られていた桂の地に建てられており,「月見台」,「 月波楼 (げっぱろう) 」,「 浮月 (うきづき) の 手水鉢 (ちょうずばち) 」,「月の字の引き手」の名称等,月に関連するものが数多くあります。. 9メートルである。正確には、建物の東西の軸線は南東方向に19度ほど振れており、これは寛永元年(1624年)の月の出の方位と一致しているという。入母屋屋根の妻側を池に向けており、妻飾りは木連格子(きつれごうし)とする。古書院の入口は北側にある中門である。中門を入ると杉苔で覆われた壺庭があり、切石を組み合わせた延段(敷石道)が古書院の玄関口である「御輿寄」(おこしよせ)へ向けて斜めに伸びる。この延段は「真の延段」と呼ばれる。ここで言う「真」は「真・行・草」(漢字の3書体)の「真」であり、「行の延段」は後述の「外腰掛」前、「草の延段」は笑意軒前にある。壺庭内には延段のほかに、自然石と切石を混ぜた飛石が打たれ、別名「切支丹燈籠」ともいう織部燈籠が立つ。御輿寄の手前には4段の幅の広い石段があり、その上に横長の沓脱石がある。この沓脱石は6人分の沓の幅があることから「六つ沓脱」と称される。石段、沓脱石ともに御影石製である。 古書院の間取りは、大小8室からなる。南東隅に主室の「一の間」があり、その北に「二の間」「縁座敷」と続く。「縁座敷」の西は前述の「御輿寄」で、その南に「鑓の間」「囲炉裏の間」があり、「鑓の間」の西は「膳組の間」、「囲炉裏の間」の西は「御役席」である。一の間・二の間の東には1間幅の広縁がある。縁は矩折れに一の間の南にも続くが、南側では幅が半間になる。広縁のさらに東には「月見台」と称する露台がある。中書院、新御殿が杉の面皮柱を使用するのに対し、古書院は松の角柱を使用し、内法上は鴨居のみで長押を省略するなど、全体に地味な意匠になる。内法上の壁も、中書院・新御殿が錆土を用いた色付壁とするのに対し、古書院は白の漆喰塗り壁である。この漆喰塗り壁は「パラリ壁」とも呼ばれ、天然醸造の消石灰を用いている。昭和の大修理に際しては、高知県から伝統製法の天然醸造による俵灰を取り寄せて用いた。一の間は10畳大で、うち1畳を畳床(たたみどこ)とする。一の間の床柱のみは角柱でなく杉の面皮柱を用いている。床壁の貼付や襖は桐紋を雲母刷した唐紙である。二の間は15畳。鑓の間は御輿寄(玄関)の南に続く10畳間で、室名は天井に鑓掛けがあることに由来する.

桂垣- 敷地東縁、桂川の堤防沿いに230メートルにわたって作られている垣根である。敷地の外側から見ると普通の生垣に見えるが、実際は、敷地内に生えている竹を、根が生えたまま無理やり傾けて竹垣の上に乗せ掛け、葉の付いたまま編み込んだものである。 穂垣- 表門から通用門までの間に伸びる垣根である。頂部を斜めに削いだ竹の柱を等間隔に立て、間を穂竹でつないだものである。 表門- 庭園の北端に開く正門で、御成門ともいう。丸太の門柱の間に、割竹を組んで造った両開きの門扉を取り付けたのみの簡素な門である。一般参観者はこの門ではなく、南西にある通用門から出入りする。 御幸門- 前述の表門を入って真っ直ぐ進んだところにある。後水尾院の行幸に備えて建てられた。切妻造茅葺の素朴な門で、格式の高い四脚門ではなく、棟門形式とする。柱と桁には皮付のアベマキ材を使用する。門の手前脇にある方形の切石は「御輿石」と称し、天皇の輿を下す場所だという。 御幸道- 御幸門を入って右折し、古書院へと向かうアプローチである。道の石敷は「霰こぼし」と称し、青黒い賀茂川石の小石を長さ44メートルにわたって敷き並べ、粘土で固めたものである。突き当りの土橋を渡って古書院に至る。 中門- 古書院の御輿寄(玄関)前の壺庭への入口となる、切妻造茅葺の門である。門へのアプローチの右手には黒文字垣がある(黒文字は樹の名称)。 住吉の松- 前述の御幸道を通って土橋を渡り、古書院へ向かう道筋で左方を見るとこの松がある。この松は池に突き出した岬の突端にあり、池の眺めをさえぎっているため、「衝立の松」とも称する。池の眺めをあえて遮り、訪問者が古書院に上がって、そこの広縁から外を眺めたときに初めて池の全景が見えるようにという配慮のもとにこの松が植えられているという。かつては池の対岸にこの松と対をなす「高砂の松」という古木があり、「住吉の松」「高砂の松」がそれぞれ古今和歌集と万葉集を表していたという。 外腰掛- 前述の御幸道の途中から左に入り、飛石を伝っていくと、外腰掛がある。これは、松琴亭で茶会が催される際の待合になる。正面3間、側面1間で、茅葺屋根を架す。柱は皮付クヌギ材で、曲木の梁を渡し、屋根裏は葭を竹垂木で押さえている。奥には板腰掛を設け、北端に飾り雪隠がある。 松琴亭付近の茶庭 - 桂離宮の池は大小5つの島があり、入江や浜が.

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